ビザ更新 Renouvellement de titre séjour

ビザ更新のために必要な書類

ー パスポート (ビザ、滞在許可証の紙が貼ってあること)

ー 住居証明(大家さんのサイン入りで、家賃を支払ったことを証明するもの*住所が書かれていなくてはいけない ガスの支払いとかがあればそれも)

ー 経済証明 (月615ユーロ分 フランス語でJusticication de mes recourses présent)

ー Timbre Fiscaux 79ユーロ分

ー 戸籍謄本 ※フランス語! 原本も必要

ー Lettre acceptation

ー Sécurité socialの紙

ー パスポート用の顔写真 3まい

 

これらを全部そろえて、CUMPUS OFFIに行き提出して、

rendez-vousをとりつける。

RVの日にいってやっとレセピセがもらえる(とかなんとか)

しょうじきよくわかっていない笑

 

 

私の場合はそのころCachanにすんでいたので

L'hay les rosesでレセピセ取得したが、

待ち時間がありえないくらい長かった。(6時間は待った)

 

しかも住所と顔写真だけみせたらレセピセもらえて、

グルノーブルの県庁に行けばいいと言われたので行ってみたら、

レセピセが3月までで、期限が切れる2か月にしか更新の予約ができないので

12月に帰る私はいらないとのこと。

よって、TimbreFiscauxもいらなかったし経済証明書も私は使わなかった

しかしこれはとてもレアなケースなので、普通は上記の書類に何の不備もないことが前提で更新することが必要

 

 

ルーブル美術館と、フランソワ一世

フランスの王様は大体「こいつむちゃくちゃだな」と思うが、フランソワ一世のむちゃくちゃ加減は華やかだし、勢いがあって好きだ。

 

フランソワ一世の同期も、みなスターだ。イギリスのヘンリ八世。ハプスブルク家かつ神聖ローマ皇帝の座にも就いたカール五世(カルロス一世)。オスマン帝国全盛期をもたらしたスレイマン一世。

 

フランソワ一世はルイ12世がなくなった後、王位を継承する。即位して速攻戦争、イタリアに容赦なく遠征。戦争し過ぎでお金がないから、増税したり、議会の承認なしで国王がお金を自由に使える改革を起こし、結果的に絶対王政を確立させた。

 

イタリアにせめたりしてたら、神聖ローマ帝国の地位を継げるかもしれないチャンスが到来。もちろん名乗り出るが、ここで出てきたのがカルロス一世。ハプスブルク家の人ゆえ、おかねはあるし、一票もフランソワ一世に譲ることはなかった。

結局カルロス一世は神聖ローマ帝国の皇帝となり、カール五世に改名、そしてドイツとスペインの軍を掌握したカール五世は混乱状態にあるイタリアをめぐって、フランスと戦争した。

そうやってイタリア戦争していたら、ドイツ軍につかまってしまうフランソワ一世。幽閉されて、屈辱的な条約を結ばされる。しかし最高なのは、解放されたとたん、そんなん知らんわといって条約放棄。また戦争したりめちゃくちゃなことする。

 

 

イタリア戦争で学んだのは裏切ることだけじゃない。

 

 

レオナルドダビンチ に対する画像結果 

イタリアの芸術や建築は、フランスよりもはるかに進んでいた。

イアリアの芸術に激しくあこがれた彼はいろんな芸術家を招いて、趣味の狩猟のために建てたフォンテーヌブロー宮殿の内装は全部イタリア人にお願いした。

そのなかでも、特別中の特別、あのレオナルドダヴィンチは、フランソワ一世に生涯を保証され、敬愛された。レオナルドダヴィンチのおうちまで近所に作ってしまう。実はフランソワ一世の部屋と、彼の家は隠し地下道によってつながっていた。こうやって彼らは密会していたらしい(付き合ってんのかよ)。レオナルドの墓もフランスにある

 

彼がいなかったら、あの有名なモナリザルーブル美術館にはない。

そもそも、ルーブルはもともと要塞で、フランソワ一世が改築して宮殿にしようと計画した。天井の凝った絵や、外観の荘厳な装飾も、彼がいなければもたらされなかった。

 

 

 

美術だけでなく、女の人も大好きだった。

美人がいれば、イタリア人に装飾させた自分の城でとっかえひっかえに寝まくる。時に翻弄され、女の気持ちはかわりやすいなぁみたいな詩を書いたりして。愛人はとにかくたくさんいた。

レミゼラブルでしられるユゴーの作品にも、フランソワ一世がモデルとなった王は愉しむという小説がある。王に遊ばれて捨てられたメンヘラとそのお父さんの話だ。

 

 

お隣のイギリスは「贅沢は敵だ!」の精神であるし、ヘンリ八世もフランソワ一世と違ってちゃんと相手を変えるときは結婚している。

しかし、離婚が許されないため、さよならするときは死刑台にまで送り込んでいるけれど。

 

 

それと比べたら、遊ぼうが誰としてようが別にだれも咎めないフランス。死ぬよりかは遊ばれたほうがまだましなのかもしれない、、、。そんな風に、フランスの「贅沢は味方」精神と、恋愛への自由奔放さを植え付けたこの王様。

彼なしではルーブルはきっとここまで有名じゃなかった。レオナルドダヴィンチも、興味に任せて作品をこれほどまでに残すことは、まず不可能だったでしょう。

 

 

monariza に対する画像結果

 

これで、未完成。

しかし、奪ったのではなく、画家からフランスに授けられたこの作品は、もう二度とフランスから出ることはない。脆い作品らしい。

 

小さいけど、この生々しさ、機会があったら生で見るべき作品の一つである。

 

 

 

ハイヒールおじさん ルイ14世

パリコレで有名なフランスは、案外おしゃれじゃない。東京のほうが、よっぽどおしゃれで個性的な人も多く、刺激的な街である。

しかし、パリにもおしゃれで所謂「下北沢」っぽいところがある。マレ地区というところだ。

verrerie

 

画像はFree'p Starという古着屋さん。1ユーロで服が買えることもある。

 

マレ地区は、パリの中心に位置する。4区と呼ばれていて、近くにはHôtel de Villeだとか美術館がある上品な地域。観光地もそれほど遠くない。

近くにシテ島とよばれる、セーヌ川を二つに分けるように存在する孤島が(というと大げさだが)ある。ノートルダム大聖堂もそこにあるし、人も住んでいる。もともと、セーヌ川では魚が取れたのですごくリッチな地域だった。ここに初めに住んだのが,Gaulois(e)(ゴロワ,ゴロワーズ)、日本語だとガリア人だ。

だが、別に貴族が住むような場所ではなかった。全然おしゃれな地域ではなかったのである。

ルイ14世の王家ブルボン朝を始めたアンリ4世が、この地域に広場を作って、貴族が続々豪邸を立て始めたことで、どんどんと町が繁栄していった。

フランスの地面は石畳ですごくきれいだが、道の真ん中が少しくぼんでいる。これは水はけをよくするため。昔はトイレの汚物を道路に捨てていた。男性のマントも汚物がはねて洋服につくのを防ぐため、そしてハイヒールも、汚物を踏む面積を最小限にするためだった。

 

 

 

Louis XIV of France.jpg

ハイヒールは本来女性のものであったが、のちに男性の正装としてもブームになる。

当時のファッションリーダーといえば、もちろん国王だった。

ファッションは男性のもの、という考え方が当時にはあったらしい。この時代はかつらをかぶり、ハイヒールを履き、ふくらはぎの筋肉を見せるのがはやりであった。

この絵は、ルーブル美術館で見ることができる。直接みると、ルイ14世がいかに宝石や派手な装飾品をごたごたと身に着けているかわかる。悪趣味とまで言える、富の豊かさの表現。おしゃれはいつの日か、派手で動きにくく、性的魅力を表すものになった。

 

 

 

 

当時のヨーロッパ諸国に大きな影響を与え、ヨーロッパ各地に「小さなヴェルサイユ宮殿」がたちまくるほど、ヴェルサイユ宮殿はモデルとなった。

 

 

 

パリと、ナポレオンボナパルト

 

フランスは3回、国が終わりそうになったことがあって、いずれも3人の偉人たちによって建ち直り、発展を重ねている。

 

1人は、ジャンヌダルク。神の声を聴いて武器をもち、フランスを英国から救った泥臭い女の子。

1人は、ナポレオンボナパルト(ナポレオン1世とも呼ばれる)。ヨーロッパ中を戦争に巻き込んだ、今もなお人々を魅了し続ける野望に満ちた人。

もう一人はシャルルドゴール将軍。第二次世界大戦で、フランスをドイツから救った長身の男。

 

 

もともと、ナポレオンが生まれたのはコルシカ島。ナポレオンがうまれるたった3か月前に、ジェノヴァからフランスに統治権が渡って、対して成績もよくなくいじめられ、でも天才的軍事力と統率力で皇帝になり、堕落し、復活し、フランスを大恐慌に陥れて、孤島で死んだ、ロックな人生。今でもフランスでは、子供にナポレオンと名付けるのは禁止されているほど、国民に愛され、強く名を刻んだ人である。

 

 

 

ナポレオンの戴冠式 ダヴィッド作はルーブルにある。

 

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作品があまりにも大きくて、写真を上手にとることは難しかった。だから中心部分だけの写真を撮った。ルーブルで一番大きな作品はカナの婚礼(モナリザの向かいに位置する)だが、こちらの作品も非常に大きく、英雄ナポレオンと最愛の妻ジョセフィーヌが周囲に埋没することなどなく、華やかで、新聞の一面に載ってもおかしくないような、写真みたいな、歴史の大事な一場面を切り取りました、というような感動せざるを得ない作品だ。

 

ちなみに先ほど述べたカナの婚礼も、ナポレオンがヴェネツィアを征服した際に、修道院の壁からベりべりっとはがしてきたものらしい。こんな大きな作品、持ち帰れと言われても困っただろうにと思うが、ルーブルにはそのような作品ばかりだ。

 

閑話休題、ナポレオンの戴冠式の話だが、はじめてこの作品を見たときわたしは当時17歳は不思議だった。「ナポレオンの戴冠式」のくせに、女の戴冠式じゃないか、冠をかぶせてもらうのは、ナポレオンのはずではないかと。

 

 

戴冠式という行為は、政治的な儀式だ。王位ないし帝位の就任を正式とする行為だ。フランス王の戴冠式はもともと、ランスという街のノートルダム大聖堂で行われる。(パリのノートルダム大聖堂は超有名観光名所であるが、ノートルダムは数えきれないほどある。聖母マリア教会と訳されるものだが、本筋と違うので多くは説明しないほうがいいかもしれない)。しかし、ナポレオンの戴冠式は、ランス市況ではなくて、ローマ教皇をパリのノートルダム大聖堂にわざわざ招いて行わせた。本来は、田舎国のフランス帝王がローマに赴くのが当然であるのだろうけれど。

 

画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外

 

ここにわざわざ招かれたローマ教皇。いざナポレオンの戴冠、というときに、ナポレオンはローマ教皇から冠をパッと奪って、その手で自らの頭に乗せた。問題児、なんて言葉では言い表せない。「まじでそれはNGな」行為を、各国の皇族や聖教者の目の前でナポレオンはやってしまった。ざわざわ遠方からきたローマ教皇はおそらく激昂、周りもびっくりな権威の誇示、、、。

 

 

特に、時代は革命期である。カトリックの力は堕ちたとはいえ、誰が、どのように、権威を持ち国を治めるかは誰にも分らなかっただろう。ナポレオンが自分でローマ教皇から冠を奪った行為は、政治的にも宗教的にも、将来どんな意味を持っているか分からない。

 

それゆえだろう、この絵の中で、ナポレオンはすでに冠をかぶっている。誰によるものか?それはよくわからないあいまいさを残しつつ、愛する妻ジョセフィーヌへの戴冠を描き、最高傑作と評価され、こうしてルーブルにも無事保管されている。

 

 

画像に含まれている可能性があるもの:空、夜、屋外

画質があまりよくない。だけど、画面の中央から少し右に、やたらと黄色く光ったものがあるのがおわかりいただけるでしょうか。

この写真は、夜にエッフェル塔の上から撮影したもの。

 

画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、屋外

これはお昼に撮影した。

 

廃兵院アンヴァリッドといって、ルイ14世の頃に作られた。ルイ14世といえば、ヴェルサイユ宮殿を作ったことで有名だが、ルイ14世の有名な肖像画ルーブル美術館にある。ハイヒールで、宝石やキラキラしたものをとにかく体中に巻き付けた、豪華で派手なことを重視した(超悪趣味な)、当時のファッションの最先端。

このアンヴァリッドの中に、ナポレオンのお墓はある。